37押上界隈の歴史あれこれ
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37.横網町公園 †
令和5年(2023)は「関東大震災から100年」の年にあたり、「横網町公園」にある「東京都慰霊堂」(写真1)はマスコミに度々取り上げられ紹介されました。

「東京都慰霊堂」については、本紙「押仲」の第70号(注1)の「関東大震災」の項でも、その一部について触れました。
東京市(当時)は、大正12年(1923)に発生した関東大震災により、多くの死者を出しました。「慰霊堂」は、その遺骨を安置し御霊を供養するために建てられた施設であることはご存じのことと思います。
今回は、墨田区内に3つある都立の公園(注2)の一つ「横網町公園」が現在の公園に至るまでの経緯を紹介します。
明治時代、公園が出来る以前のこの地は、広大な敷地の陸軍 被服廠(注3)があり、その工場・倉庫が建っていました。
図1は大正元年(1912)の地図です。赤枠の位置が被服廠で、「被服本廠」と記してあります。

大正8年(1919)、被服廠が赤羽台に移転し、広さ約2万坪(約7七万)の広大な「被服廠跡」の敷地が残りました。
大正11年(1922)、東京市は跡地を公園にする計画を進めていました。
翌年の大正12年(1923)9月1日午前11時58分、マグニチュード7.9の関東大震災が発生しました。昼食の準備時間と重なり市内の100カ所以上で火災が発生しました。火災から非難するため荷物を携えた人々は、広大な被服廠の跡地に殺到しました。その数は約4万人に達したと言われています。火は荷物に燃え移り火災旋風が起こります。この惨状の詳細については、マスコミなどでも報道されている通りで、被服廠跡地では3万8000人の人たちが焼死しました。
東京市は、被服廠跡地の北側約6000坪(19580)の地に「震災記念堂」を建設し、東京市内の震災による死者5万8000人の遺骨を埋葬し御霊の供養をしました。昭和5年9月1日、「横網町公園」は震災記念堂と共に開園しました。
翌年、震災の惨状と、震災後の復興事業を後世に永く伝えるため、園内に復興記念館(注4)を建設しました。
昭和16年(1941)、日本は太平洋戦争に突入しました。
この間、昭和18年(1943)、東京市は「東京都」になりました。
関東大震災発生から17年後の昭和20年(1945)3月10日深夜、東京は米軍の空襲により再び火の海となり、10万5000人の犠牲者を出しました。
昭和26年(1956)、震災記念堂を「東京都慰霊堂」と改称し、東京大空襲などによる殉難者の遺骨も併せて埋葬、現在は約16万3000体の遺骨が安置されています。
図2は昭和24年頃の地図です。この頃は、横網町公園内の慰霊堂は、まだ建設当初の名称「震災記念堂」になっています。
また、昭和22年(1947)3月に誕生した墨田区の「区役所」は、被服廠跡地の清澄通りに面した横網町公園の南にありました(元本所区役所の建物)。現在、江戸東京博物館・両国国技館等がある場所は、江東市場(中央卸売市場 江東分場)でした。

東京都慰霊堂では、東京大空襲があった3月10日に「春季慰霊大法要」が、また関東大震災が発生した9月1日には「秋季慰霊大法要」が毎年営まれています。
公園内には、震災記念屋外展示場はじめ日本庭園・平和祈念碑・殉難者犠牲者の碑・遭難児童弔魂像・・・等があります。
横網町公園は東京都の聖地として、都民・区民の憩いの場になっています。
〈注釈〉
注1 押仲70号は、平成28年(2016)9月30日に発行した。
注2 区内の3つの都立公園は、向島百花園・横網町公園・東白鬚公園。
注3「廠」は工場の意味、被服廠は軍服や軍靴を造る施設。
注4 復興記念館には、震災及び戦災の記念の遺品や、当時の状況を伝える絵画・写真・図表などが展示されている。入館は無料、休館日は月曜日(祝日の場合は翌日)及び年末年始。
参考資料 すみだ郷土文化資料館・東京都慰霊協会・横網町公園案内書他