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2.地図に見る押上界隈の変遷 その1 続き

図は約100年前の1912(明治四五)年に発行した東京市全図から本所区北部を抜粋しました。明治21年に東京市が誕生し東京府東京市本所区になりました。この時に十間川北側の向島須崎町・向島小梅町・向島請地町・向島押上町等が新たに本所区に編入されました。本所区と東京府南葛飾郡吾嬬村の境界は古川(旧コヤマ脇の細い道)です。

本所区北部図''

押上界隈の初めての交通機関が1904(明治37)年に開通した東武鉄道です。浅草停車場(現スカイツリー駅)が記されています。当時の東武鉄道の幹線は北千住〜亀戸間で、曳舟〜浅草間は支線でした。その後、亀戸から先への延長の見通しがなくなり、現在は逆転して曳舟〜亀戸間が支線なっています。
 地図には載っていませんが、京成電鉄は押上〜柴又間がこの年の1912年に開通しました。100年前のことです。
 この頃の道は昔のままで、曳舟川通り(地図には「曳舟通り」と記されている)以外の主要道路はなく、曲がりくねった細い道のみでした。
 またこの頃、隅田川に架かっていたこの界隈の橋は、大川橋(現吾妻橋)のみで、言問橋も桜橋もまだ架かっていません。まだ「竹屋の渡し」や「寺島の渡し」等が活躍していました。

2.押上界隈の変遷

 図い蓮¬鵤沓廓前の1941(昭和16)年発行の「大東京三五区地図本所区」からその北部を抜粋ました。

大東京三五区地図本所区北部図''

1923(大正12)年に発生した関東大震災により、壊滅状態になった本所区は復興事業の区画整理が進み、昭和5年には道路は碁盤の目のようになり地図の様相がすっかり変わりました(向島請地町・押上町・中ノ郷町・須崎町を除いて)。現在の水戸街道・浅草通り・言問通り・小梅通り・桜橋通り・旧山口ガーデン通り等はこの区画整理により出来ました。隅田川に架かる言問橋もこの時(昭和5年)に同時にできました。現在の墨田区内の道路地図はこの頃に確定したのです。
 この地図で「押上一丁目仲町会」は旧向島請地町であったこと、隣接する「押上一丁目町会」が旧向島押上町であったことが判ります。同じ押上一丁目であるにもかかわらず、鎮守様が、それぞれ飛木稲荷神社・牛島神社と異なるのは、前述の通り旧町名の区分によります。北十間川南側の旧押上町と旧柳島元町の地名は新たに「業平橋」になりました。  2年後の1943(昭和18)年に東京府は東京都に改められ東京都本所区向島請地町に変わりました
 交通機関は、東武鉄道が浅草(松屋)まで開通し、以前の駅名である浅草駅は「業平橋駅」に変わりました。また、押上の大踏切際に「請地駅(東武と京成の乗換駅)」が、そして業平橋駅と終点浅草駅の間に「隅田公園駅」が設けられました。
 都電(当時は市電)は、大正年間に浅草通りに押上経由で柳島車庫〜須田町間(24番)及び柳島車庫〜月島間(23番)が開通しました。昭和になり本所吾妻橋で分岐し水戸街道に向島須崎町〜須田町間(30番)が開通しました

押上・向島界隈の地図''

 図イ蓮■僑闇前の1956(昭和31)年当時の「区分地図・墨田区」から抜粋した押上・向島界隈の地図です。
 70年前の1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲により、本所区はほぼ100%近くの家屋を焼失しましたが、この頃は1954(昭和29)年から始まった神武景気と呼ばれた好景気の時代で、戦後の復興が加速を始めた時期です。
67年前の1947(昭和22年)に本所区と向島区が合併し東京都「墨田区」が誕生しました。押上一丁目仲町会の町名表示はまだ戦前と同じ向島請地町です。また、隣接する東側の町は吾嬬町西一及び二丁目(旧向島区)です。
京成橋北側正面にバラック建ての京成の終点「押上駅」駅舎がありました。東武の隅田公園駅・請地駅、京成の請地駅は終戦後に廃止されました。



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