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7.東京大空襲

 すみだの町は、明治時代以降、僅か35年の間に、極めて大きな災害に三回遭遇しました。しかし、その都度、不死鳥のように復興し、それ以前より良い環境になり今日に至っています。
3大災害とは、。隠坑隠(明治43)年8月の大水害■隠坑横(大正12)年9月1日の関東大震災1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲です。
今回は、前号で紹介した北澤さんのお話にあった「東京大空襲」について、私が体験したこと、母から聴いたことを紹介します。

 東京大空襲
75年前の1941(昭和16)年〜45(昭和20)年、日本はアメリカと戦争しました。この戦争を「大東亜戦争」と言います。「東亜」とは東のアジアのことです。アメリカでは「太平洋戦争」と言っています。同じ時期にヨーロッパでも戦争がありました。この両方の戦争を合わせて「第二次世界大戦」と言います。~

「東京大空襲」は、日本が敗色濃くなった1945(昭和20)年3月10日にあり、私はこの大空襲に遭遇しました。71年前のことです。しかし、この時はまだ3歳7か月の幼児だったので、わずかな記憶しかありません。そこで、私が強烈に記憶していることと、その後に、母たちから聞かされた「その時の様子」を交えてお話します。

私の家族は、両親・祖父母・1歳4か月の弟と私の6人家族でした。父は、召集され1年程前に出征(兵隊に行く)していました。
空襲があった日の前3月9日夜、祖父が町内の警防団員として出かけており、家には、祖母・母・弟・私の四人だけでした。

その3月9日の深夜12時近く、三百余機のアメリカ軍爆撃機「B-29」が墨東地区上空に飛来しました。私たち家族4人は、母にうながされて急いで、裏庭の防空壕に逃げ込みました。防空壕とは、庭に穴を掘って上を覆い、その上に土を盛って造った空襲から身を守るための避難場所です。

「B-29」は焼夷弾を積んでおり、バラバラと投下して行きます。当時の日本の家は、ほとんどが木造建築でした。そのため、焼夷弾によりあちこちで大火災が発生、火の勢いはどんどん増していきます。
「火が迫っているぞ〜 早く逃げろ!」外にいる人が大声で知らせてくれました。 私たち家族は「防空頭巾」(今は「防災頭巾」と呼んでいます)をかぶり防空壕を出ました。焼夷弾は赤・黄・緑色の閃光を伴って落下し子供の私の目にはまるで花火のように映っていました。

 3月とはいえ気温は低く、冷たい北風が吹き荒れ、体は凍(こご)えるように冷えています。火災は益々大きくなり、轟音を伴い巨大な竜巻の様に渦を巻き、勢いよく上昇していく「火災旋風」があちこちでおこりました。
私は、寒さと恐ろしさで体中をガタガタ震えさせていました。そして、母に手を引かれ、祖母と、燃え盛る大火災の中を、右往左往を繰り返しながら、逃げ回りました。

 夜明け前には、燃えるものが尽きたために、火災は徐々に収まりました。そして、朝を迎えました。 私たち家族は、奇跡的に全員の命が助かりました。
まだ町中が煙で燻っている中を 私たちは我が家に戻りました。やはり我が家も全てが焼け落ちていました。夕べ家族四人で避難した防空壕は、潰れていて煙を上げていました。私たちは、いつ・どこで命を落としても、おかしくない状況だったのです。今、思い出してもぞっとします。

 深夜から始まったわずか2時間程の空襲で、墨田区の南半分の旧本所地区はその96%が焼き尽されました。墨田区全体でも75%以上が焼失しました。死者・行方不明者は10万人以上と言われています。すべてが灰になり実数が把握できないのです。~

 次の写真は終戦直後に米軍が台東区を上空から撮影したものです。墨田区も写真同様の焼け野原になりました。

終戦直後の台東区 手前は東本願寺''
終戦直後の台東区 手前は東本願寺  米軍撮影

空襲時の言問橋は地獄の様な惨状でした。台東区側から墨田区側に向かって逃げようとする人たちが言問橋の上でぶつかり合い、身動きできない状態になりました。
みんな荷物を両手に持ちっています。中には荷車(リヤカーや大八車)で大きな荷物を運んでいる人もいました。その結果、橋の上にいた人たちの乾燥し切った衣類や髪の毛に着火し、炎が橋上を走ったそうです。そして殆どの人たちが焼け死んでしまいました。中には、熱さに耐えられず、橋の上から隅田川に飛び込んだ人たちがたくさんいました。その多くの人たちが溺死しました。
次の絵は、長じて画家になった狩野光男さん(当時14歳)がその時の体験と状況を描いた絵です。 (すみだ郷土文化資料館蔵)

画家になった狩野光男さん(当時14歳)がその時の体験と状況を描いた絵''

次の写真は最近の言問橋欄干の親柱です。皆さんはよく目にしていることと思います。言問橋の欄干は、花崗岩と云う真っ白い御影石で出来ていました。しかし、どの親柱も、黒く汚れています。これは空襲で焼け死んだ人たちの焦痕です。この大きな親柱が、8基あります。70年経った今でもはっきりと残っています。(横井正男撮影)

言問橋欄干の親柱''

1990(平成2)年に、「3月10日」は「東京都平和の日」に制定されました。この日は午後1時に黙祷をします。


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