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6.終戦前後のお話

 町内の北澤辰男さん(北澤化学会長)に、太平洋戦争(1941〜45年)終戦前後のご自身の体験と押上界隈の様子を伺いましたのでご紹介します。70年前の昭和20(1945)年当時の貴重なお話です。北澤さんは昭和3年に台東区雷門1丁目で生まれました。現在87歳ですが大変お元気で、毎日会社に出勤されているそうです。

 北澤さんは昭和19年、16歳の時に志願兵として海軍に入隊、横須賀に配属されました。翌年の昭和20年3月10日の米軍による東京大空襲の時には、藤沢の航空隊にいました。
 「東京に実家がある者は、自宅の様子を見て来る様に」との上官の指示で、神奈川県藤沢から東京に向かいました。しかし、交通機関が不通で帰る手立てがありません。すると、陸軍のトラックが通りがかり、事情を話すと浅草まで送ってもらえることになりました。陸軍の兵隊さんの中に、ひとり海軍の軍服を着た北澤さんは車中では皆さんに親切に対応され浅草まで送ってもらったそうです。

 「東京に入り、品川あたりから空襲の惨状が目に飛び込んできました。途中、たくさんの焼死体がありましたが、蔵前あたりの道路に子供を抱えた母親の黒焦げになった焼死体は気の毒で、今でも目に焼き付いています。」(北澤さん談)

焼け野原になった浅草でトラックを降りました。自宅のあった雷門に行くと「北澤家一同は無事に近くの田原町小学校に避難しています」との伝言が書いてありました。 こうして田原町小学校に行き、ご両親・弟さんたちと無事に会うことが出来ました。

 北澤さんは終戦のその年に、現在地である「本所区向島請地町30番地」に土地を入手することが出来ました。以来70年にわたり押上に住み、その変遷を見守ってきました。

 終戦直後の押上も浅草同様で見渡す限りの焼け野原です。回りには何もありません。 西の方を見ると、遠く上野駅を出発する東北本線の蒸気機関車の煙が見え、汽笛が聞こえました。微かに機関車も見えました。南を見ると、省線(いまのJR総武・房総線)が錦糸町駅を走る様子が見え、電車の走行音がよく聞こえました。

 今はありませんが、当時は桜橋通りの踏切脇に東武線の請地駅がありました。 終戦直後は食糧がなく、ヤミ米・乾麺・トウモロコシ等を埼玉県や栃木県方面から買出してくるたくさんの人たちが、東武電車を利用していました。

 業平橋駅でヤミ米の検閲があり、これらが没収されるため、求めた食糧をひと駅手前の請地駅で窓から投げ降ろし、この駅で降りる人たちがいました。
しかし、取り締まる側も時々は請地駅で待機していて、これらの食糧を没収していました。
 この頃はまだ京成線の線路際には道路がなかったので、北澤さんはお宅からすぐ目の前のこの様子をよく目にしました。そして気の毒に思ったそうです。

台東区・菊屋橋交差点付近''
空襲で都電も焼けた台東区・菊屋橋交差点付近 石川光陽氏撮

石川光陽氏は元警視庁所属の警察官で、総監の命を受け東京大空襲直後の記録写真を撮影した人です。(東京大空襲展より)

太平洋戦争と東京大空襲については、次号で紹介します。


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