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18.曳舟川通り(3)

 今回も「曳舟川通り」の歴史についてご紹介させて頂きます。いささか長くなり恐縮ですが、私は、「曳舟川通り」が「墨田北部地区の南北を貫く唯一最古の幹線道路」であったこと、そして「すみだ」の発展を支えてきたと考えています。よって引き続きお付き合い下さいます様お願い致します。
 明治43(1910)年の大水害により明治政府は荒川放水路を造りました。このことは「押仲72号」(平成29年3月発行)でご紹介した通りです。これにより、曳舟川は葛飾区側と分断され、流れが無くなってしまいました。水の淀みと相俟(あいま)って沿岸の家庭用排水、工場からの工業用排水等により、川は程なく「どぶ川」と化してしまいました。
 次の写真1昭和20(1945)年頃の鶴土手橋(ロイヤル・イトーヨーカドー角の交差点)から撮影した写真です(墨田の今昔より)。右側の建物は資生堂東京工場(京島1―38)で戦災での焼失は免れました。現在の曳舟文化センターが建つ一角でます。

昭和20(1945)年頃の鶴土手橋(ロイヤル・イトーヨーカドー角の交差点)から撮影した写真''

 太平洋戦争末期の空襲により、沿岸の建物の多くは焼失し、住民は疎開していました。また、多くの工場も被害に遭い一時閉鎖しました。いずれからも排水が無かったため、一時的に、曳舟川の水は川底まで見えるほど澄んでいました。
 その後、疎開していた人々が戻り、焼失した家を順次再建し生活が始まります。また、工場も生産活動が再開されると、曳舟川は瞬く間に元の「どぶ川」に戻りました。
 東京都は昭和29(1954)年、曳舟川の河川機能廃止を決定しました。翌年の昭和30年に川は旧本所区の八反目橋(向島一・押上二)〜地蔵橋(高木神社入口)間が先に下水を暗渠化し埋立てられました。
 次の写真2は旧向島区の地蔵橋(高木神社入口交差点)〜鶴土手橋間の埋立工事中の様子です(松本弘氏撮影)。地蔵橋上からの上流(北方)の眺めです。

旧向島区の地蔵橋(高木神社入口交差点)〜鶴土手橋間の埋立工事中の様子''


 正面奥は東武伊勢崎線のガードとその左右は踏切です。踏切の左手奥に見える跨線橋が曳舟駅です。川の右岸には埋設する大きな下水管や工事用資材が並んでいます。川の左岸は道幅が広く、江戸時代には「四ツ木街道」とも呼ばれていた主要道路でした。
 昭和27(1952)年、荒川放水路に新四ツ木橋が完成すると、向島地区を南北に走る国道「水戸街道」が主役になり、曳舟川通りはそのう回路になります。 次の写真3は曳舟川下流言問通りとの交差点付近の埋立直後の昭和30(1955)年頃の様子(「墨田の今昔」より)です。
    

曳舟川下流言問通りとの交差点付近の埋立直後の昭和30(1955)年頃の様子''

 右側の建物は旧言問警察署(押上2―2)です。現在は都営住宅が建っています。左側の屋根は薬師湯(向島3−46)です。
 道路の中央部分(川だった部分)はまだ未整地で、車は通っていません。道路中央の先に見える3階建ての建物は、関東大震災後に被災者家族のために建てられた最初に建てられた鉄筋コンクリート造り集合住宅の中之郷同潤会アパート(押上2―12)です。現在は、2階が「女性センター」が入っている「セトル中之郷ビル」になっています。
 道路左側の従来からの主要道路土手道も未舗装です。数少ない車が通った後は、砂ほこりが舞い上がりました。雨が降ると一面ぬかるんで水溜りができていましたが、まもなく舗装工事が行われました。電柱もまだ完備されていません。
 次の写真4は、写真3よりやや上流(北)ですが、ほぼ同じ場所で整地後の様子です。両側は家屋も更に建ち、自動車が徐々に普及し始め交通量も増えてくると、当時、この辺りでは珍しい横断歩道が敷かれました(「みやこどり」より)。小梅小学校の児童たちが横断歩道を渡り集団登下校しています。60年ほど前の曳舟川通りの様子です。

写真3よりやや上流(北)ですが、ほぼ同じ場所で整地後の様子''

 次の写真5は上の写真4とほぼ同じ位置から撮影した現在の様子です。沿道の殆どの家屋が建替えられています。道路中央の先にはセトル中之郷ビルなど高層マンションが建てられています。横断歩道の描き方も当時と異なっていますね。

写真4とほぼ同じ位置から撮影した現在の様子''

 この様な経緯があり、かって墨田区北部地区の主要幹線道路であった「曳舟川通り」は百年の間に大きな変貌を遂げました。現在は、曳舟駅前地区が京成押上線の高架化と共に再開発され、また曳舟川通りの起点近くの東武「業平橋駅」は「とうきょうスカイツリー駅」に変わりました。

続く