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17.曳舟川通り(2)

前号で紹介しました様に本所上水の内、下流の亀有(葛飾区)からぞ梅(墨田区向島・押上)までを「曳舟川」と呼んでいた様です(下図参照、カッコ内は現在の名称)。

本所上水の略地図)''

 この区間で曳舟に旅人を乗せ、長閑(のどか)な田園の中を運行し、旅を楽しませていたからでしょうか。曳舟川西岸の土手通りは「四つ木街道」とも呼ばれ、当時は向島地区を南北に通る唯一の主要幹線道路として多くの旅人に利用されていました。
 江戸方面から四つ木街道を北上すると、亀有で旧水戸街道(陸前浜街道)に、また手前の四ツ木では旧官道東海道(下総街道、奥戸街道、立石道とも)に接続します。
四ツ木街道は、江戸から北上する日光街道を千住宿までの間を補完する迂回幹線道路として大活躍していました。
 次の絵は前号でご紹介した江戸後期に安藤広重が描いた有名な「名所江戸百景」の中の「小梅堤」です。当時の曳舟川の小梅村界隈の様子を極めて忠実に描いています。長閑な田園風景が江戸の名所だったのです。

名所江戸百景の中の小梅堤(安藤広重画)''

 曳舟川に架かる三つの橋は手前から八反目橋(はっためばし、言問通りとの交差点付近)・庚申塚橋(こうしんづかばし)・七本松橋(しちほんまつばし、現女性センター交差点)です。これらの橋がいつ頃に架けられたか定かではありませんが、小梅〜四ツ木間には江戸時代末期、これらの橋の他に幾つかの橋が架かっていました。よってこの間の「曳舟」は既に廃止されていたと私は推測しています。「曳舟」は橋がなかった四ツ木〜亀有間(約2.8)でのみ運行され、安藤広重画「四ツ木通り用水・曳舟」の絵もこの間の風景を描いています。
 江戸時代に村尾正靖という武士が書いた「嘉陵紀行(かりょうきこう)」に曳舟を利用した旅の様子が絵図と共に記されています。ここには、歩いたと考えられる小梅〜四ツ木間は略地図を、四ツ木〜亀有までの間を曳舟に乗り旅を楽しんだと絵図と共に記しています。江戸時代末期に活躍した「曳舟」は明治の初め頃まで続きました。明治時代に入ると人力車等交通手段の発達・普及に伴い、1881〜2(明治15〜6)年頃には衰退しやがて廃止されました。
 明治政府の富国政策、殖産政策により墨東地区には沢山の工場が建設されました。石鹸・油脂・皮革・紡績・繊維・煉瓦・マッチ・自転車・時計・・・等の工場です。墨東地区は、これらの多くの製品が日本で初めて作られた場所なのです。
 明治時代後半まではまだ曳舟川界隈は長閑な田園地帯でした。1908(明治41)年頃、詩人北原白秋(1885〜1942)は故郷の福岡県柳川を偲んで、次の様な詩「片恋」で曳舟川を歌っています。
     アカシヤの金と赤とが散るぞえな
     かはたれの秋の光に散るぞえな
     片恋の薄着のねるのわが憂い
     曳舟の水のほとりを行くころを

(「春のうららの隅田川」で始まる滝廉太郎の名曲「花」も明治33年の発表です。)
 この様な詩情溢れていた景観の曳舟川沿岸にも工業化の波が押し寄せ、順次工場が建設されました。都心から極めて近く、工場用の広い敷地を安価に入手出来たからでしょう。また資材や製品の輸送にも曳舟川での水運利用が可能で工場立地に適していました。
 曳舟川沿いにあった主な工場は、ミツワ石鹸、資生堂、鳥井陶器、共和レザー、富士革布、永柳コルク、帝国発条、大同製鋼、菊美酒造 (現合同酒精)、日本鋼釘、・・・等。
 次の写真は明治40(1907)年の鳥井陶器所寺島工場(八広一‐一、現文栄堂書店)正門前の様子です(曳舟川通りと明治通りとの交差点の位置にあたります)。

鳥井陶器所寺島工場''

 門前の曳舟川から船で製品の煉瓦を出荷しています(鳥井一郎氏蔵)。 鳥井陶器工場で造られた煉瓦は、現在でも日本銀行の地下室や東京駅の貴賓室通路に残っているそうです。(「東京駅と煉瓦」より)

 大正12(1923)年9月の関東大震災後の復興事業で明治通りが開通し、曳舟川に前沼橋が、また桜橋通りには曳舟橋がそれぞれ架けられました。並行して放射六号線(現水戸街道)の建設も着工しましたが、四ツ木橋と曳舟川通りとの合流完成は、関東大震災後29年を経た戦後は昭和27(1952)年になりました。

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