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16.曳舟川通り(1)

国道6号線通称「水戸街道」のう回路として活躍している「曳舟川通り」は、その名前の通り以前は「曳舟川」と言う名前の川でした。しかも、曲がりくねった自然に出来た川ではなく、直線的な人工の川です。今から63年前の1955(昭和30)年に川は暗渠になり、埋立て舗装されて現在に至っています。 では、曳舟川はいつ頃、何のために造られたのでしょうか?

曳舟川通り''

 曳舟川の歴史は江戸時代初期に遡ります。およそ360年前、1657(明暦3)年1月に発生した明暦振袖大火により江戸は大半を焼失し、死者は10万人に達しました。徳川幕府は江戸復興と防火・延焼防止対策のための大事業を行いました。その一つが火除け地として広小路を各地に作ること、そして道路の拡幅でした。そのためには市中の人たちを移住させる必要があります。幕府はまだ東京湾内奥の湿地帯であった今の本所・深川地区に横川・堅川・小名木川・割り下水等の水路を設け、掘った土砂も埋め立てに使いました。道路は碁盤の目の様に区割りをし、江戸市中の武家屋敷、寺社、町人たちを移転させます。その住民たちの飲料水確保のために、本所上水(亀有上水ともよばれていた)が1659(万治2)年に開鑿(かいさく)されました。全長は約23劼△蠅泙后この下流が後の「曳舟川」になります。江戸市中のために造られた玉川上水(全長43)が完成した6年後のことです。

 次の図は本所上水の略地図 (水源の埼玉県越谷市から墨田区太平まで) です。図中の( )内は現在の名称です。

本所上水の略地図''

 本所上水は利根川水系元荒川の一部をせき止めて造った図中,痢峇ち昇の溜め井」(現在の越谷市)を水源としています。ここから、既に設けられていた葛西用水に並行して南下し開削されました。上水は現在の草加市・八潮市・足立区(大谷田:環七通との交差点)・葛飾区(亀有・四つ木)を経て墨田区に入ります。区内は旧寺島(現在の東向島)・請地(同押上2目・向島4丁目)・ぞ梅(同向島3丁目・押上2丁目)を経て北十間川と交差し、大横川(現在の親水公園)に並行してλ_源際まで設けられました。ここから、地中に埋設した木製の懸樋(かけひ)により分水し本所・深川地区内に給水されました。
 しかし、この上水は60年ほど使用され1722(享保7)年に廃止されました。水源との高低差がないために水量が不足したり、度々の水害に見舞われ上水が汚れたりして使われにくくなったためです。更に本所地区には徐々に井戸も作られました。上水は廃止された時に、北十間川から法恩寺際までは埋め戻されましたが、小梅以北の上流はそのまま川として残されました。

 上水の跡は、水源の ̄枌から亀有までは「葛西用水」、亀有から下流のニ冥輯崟遒泙任「曳舟川」と呼ばれています。
「曳舟川」と呼ばれるようになったのは、亀有村(葛飾区) からぞ梅村の間を、農作物の輸送舟や、観光目的に物見遊山の旅人が4〜5人ほど乗れる「サッパコ」と呼ばれる小舟の先端に綱を付け、その綱の他方に輪を作り人が肩に掛けて、土手を歩いて舟を引いたことに由来します。
 次の絵1はその引き船の様子を安藤広重が描いた絵です。「曳舟川」と呼ばれるようになった訳が判りますね。

曳舟川・曳き舟の図(安藤広重画)''
曳舟川・曳き舟の図(安藤広重画

 次の絵2は安藤広重画「名所江戸百景」の中の「四つ木通り用水・曳舟」です。幕末の頃描かれました。当時の曳舟川は江戸名所の一つだったのですね。長閑(のどか)な曳舟と風光明媚な沿岸の田園風景の様子が描かれています。遠くの山は筑波山です。
よく見ると、この絵は写実的ではありません。曳舟川は前述の通り人工の川で、流れはどこも直線的です。この様にS字状に曲がった場所はありません。また、主要な土手通りは川の西側(絵の左手)の土手で、絵では逆の東側に描かれています。

曳舟川・曳き舟の図(安藤広重画)''

 この絵は、観光用の絵として構図上、大部デフォルメ(意識的に変えて表現)されて描かれているようです。

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