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20.吾嬬神社

今回は北十間川沿岸にある墨田区には欠かせない史跡、「吾嬬神社」(写真)をご紹介します。

吾嬬神社は北十間川に架かる福神橋際、明治通りを挟んで花王石鹸の向い側に鎮座する古い神社''

 吾嬬神社は北十間川に架かる福神橋際、明治通りを挟んで花王石鹸の向い側に鎮座する古い神社です(住所 立花1−1−15)。神社の名前でお気づきと思いますが、旧向島請地町の東隣の町名は吾嬬町(東・西)でした。この「吾嬬」の名の由来が吾嬬神社の社名からきています。また、隅田川に架かっている「吾妻橋」(初めは大川橋と称した)の名称は吾嬬神社参拝への北十間川沿いの道に通じることから付けられています。吾嬬神社の創建時期は定かではありませんが、墨田区内で最も古い歴史がある神社の一つです。ご祭神は弟橘媛(おとたちばなひめ)と倭建命(やまとたけるのみこと、日本武尊とも書きます)です。ご存知のことと思いますが倭建命は一二代景行天皇(西暦70〜130年頃)の皇子です。神社には由来にまつわる次の様な言い伝えがあります。

 倭建命は父景行天皇から東国の鎮圧をするよう命じられました。倭建命一行は相模の国 (神奈川県)まで来ました。ここ三浦半島から東京湾を船で横断し上総国(千葉県)木更津に向かいます。しかし、海上で暴風に遭い大時化(しけ)となり進むことも戻ることも出来ず大変難儀をしました。ここで命(みこと)に伴われてきたお妃の弟橘媛は船が沈没する危険を感じ、荒れ狂う海神の心を鎮めるために自ら海中に身を投じました。すると海上は瞬く間に穏やかになり、倭建命一行を乗せた船は海上を走る様に進み、全員が無事木更津に上陸することが出来ました。このことから船出した場所を「走水(はしりみず)」と言う地名が付けられたと言い伝えられています。
 東国の鎮圧を終えた倭建命は東京湾奥の浮洲まで来ます。そこには弟橘媛が身にまとっていた衣・櫛(くし)等形見の品が流れ着いていました。景行天皇42 (112)年、倭建命はこの地に弟橘媛の形見の品を納め築山をきづきます。この場所に「吾がつま」に因んだ吾嬬神社が創建されました。また、ここに命(みこと)が食事に用いていた楠の木の箸二本を刺すと、やがて箸に根・枝が生じ相生(あいおい)のご神木になったと言われています。江戸時代には「吾嬬の森 連理(れんり)の楠」とあがめられ江戸名所にもなっています(参考資料 同社由緒書他)。連理とは「二本の木の枝と枝が繋がった様子で夫婦の契りが深いことの喩え」です。
 次の絵は安藤広重画「江戸名所絵図」の中にある「吾嬬の森 連理の梓」です。

安藤広重画「江戸名所絵図」の中にある「吾嬬の森 連理の梓」''

 吾嬬神社のある地名「立花(たちばな)」やキラキラ橘商店街の「橘(たちばな)」の名前はいずれも神社のご祭神「弟橘媛」の「橘」が由来なのです。
 神社の近くには小村江(江は「入江」、現在の小村井)の地名もあり、昔は吾嬬神社の辺りまでが海であったことが判ります。
 ところで吾嬬神社の話には続きがあります。弟橘媛の衣の片袖が現在の千葉県木更津市の浜に流れ着いたとの伝説があるのです。木更津市にある「吾妻神社」はこの「袖」を弔い、弟橘媛・倭建命をご祭神にこの地に創建したとの社伝があります(住所 千葉県木更津市吾妻2−7−55)。墨田の古社「吾嬬神社」の由来に通じますね。こちらの「つま」は「嬬」ではなく「妻」の字を用いています。また、このことからこの付近の海辺を「袖ヶ浦」と呼んだといわれ、現在の「袖ヶ浦市」の地名にもなっています(浦は水辺のこと)。もう片方の「袖」は習志野市の浜に流れ着いたと言う説があります。習志野市に吾嬬神社はありませんが、昔からの「袖ヶ浦」と言う地名が現在でも「習志野市袖ヶ浦1〜六丁目」として残っています。この辺りが昔は海辺であったと考えられますが、現在は埋立てが進み、海岸線はここから2劼眛遒砲覆辰討い泙后このようなことからも地名は郷土の歴史には欠かすことが出来ない大切な裏付けになるのではないかと思います。
 前述の走水の地に「走水神社(所在地横須賀市走水2―「12―5)」があります。観音崎灯台のすぐ近くです。この神社のご祭神も吾嬬神社と同じ倭建命と弟橘媛が祀られています。いろいろな遠隔の地と繋がりがあるものですね。
 また、この伝説から東(ひがし)を「あづま」と言うようになり、文字もそう読むようになったといわれています。 墨田区にもこの様な二千年近くの伝説が生きている歴史と史跡があるのです。機会があればそれぞれの地を歴史散歩してみてはいかがでしょうか。

吾嬬神社ゆかりの地 (首都高速道路網図より)''

続く