前ページへ

23.水戸街道(2)

 前号では、昭和6(1931)年、国道六号(現水戸街道)に都電が秋葉神社(向島4丁目)裏の「向島須崎町」停留所まで延長開通したところまでを紹介しました。
 図3は大日本帝国陸地測量部が昭和12(1937)年に発行した地図から本所区北部及び向島区南西部を抜粋しました。この地図で関東大震災復興事業の進捗状況が判ります。国道六号が鐘ヶ淵通りまで延長しました。
 また、桜橋通り・明治通りがそれぞれ完成しており国道六号と交差しています。完成した言問橋、言問通りから桜橋通り間の向島1〜3丁目以南の区画整理が進んでいる様子が記されています。狭い曳舟川土手道に変わる道幅が広い小梅通り(当時は改正道路)も造られています。


大日本帝国陸地測量部が昭和12(1937)年に発行した地図から本所区北部及び向島区南西部を抜粋''

 昭和14(1939)年には新四ツ木橋の架橋工事が着工しましたが、昭和16年に太平洋戦争が勃発したため、昭和18年に工事は中断されました。
 昭和20(1945)年の東京大空襲をはじめ何度もの空襲により墨東地区は焦土と化しました。しかし、終戦後の復興に伴い中断していた新四ツ木橋の架橋工事は再開し、昭和27(1952)年に完成しました。国道6号はようやく葛飾区まで貫通しました。着工後、凡そ四半世紀が経過していました。
 復興と共に人口が増大、都電も通勤・通学の利用者が増えました。昭和25(1950)年に「向島須崎町」から「寺島広小路」(現東向島広小路)まで延長されました。通勤時間帯には都電のドアが閉まらない程の満員状態で運行していました。
 次の写真2は昭和32(1957)年に向島消防署(現東向島5丁目)の望楼から水戸街道の四ツ木橋方向を撮影した写真です。真直ぐに伸びる国道六号を中心に区内北部の復興途上の様子が判ります。焦土と化していた地に人々は戻り、中小の工場の数は戦前を凌ぐほどに増えました。まだ高い建物は無くどこまでも遠方を見渡すことができます。


昭和32(1957)年に向島消防署(現東向島5丁目)の望楼から水戸街道の四ツ木橋方向を撮影した写真''
写真アルバム「墨田区の昭和」より

 昭和37(1962)年、東京都は通称道路名検討委員会において国道6号のうち「言問橋東交差点から新葛飾橋まで」の間を「水戸街道」と命名しました。
 その後の日本経済進展と共にモータリゼーション(車社会化)が進むと、幹線道路として活躍していた水戸街道は瞬く間に車の渋滞が始まりました。特に寺島広小路交差点と東武伊勢崎線の踏切が近かったために交差する明治通りと共に大渋滞が慢性化し大きな課題となりました。
 昭和42(1967)年、東武伊勢崎線の高架工事が完成しこの課題が解消しました。写真3は東武伊勢崎線のガードが完成した直後の水戸街道です。東向島広小路交差点付近から四ツ木橋方面を撮影しています。右が曳舟駅方向、左が玉ノ井駅(現東向島駅)です。

東武伊勢崎線のガードが完成した直後の水戸街道の写真''
写真手前の撮影位置が東向島広小路交差点。昭和45(1970)年頃の撮影昭和30・40年代の墨田区より

 東武伊勢崎線の踏切による渋滞が解決すると、次に道路中央を走る都電が自動車運行の妨げになりました。水戸街道の30番向島線は遂に昭和44(1969)年に廃止されました。この様な経緯があって現在の水戸街道に至っています。
 写真4は現在の水戸街道を撮影しました。小梅小学校(向島2丁目)近くの水戸街道に設けられている歩道橋(向島2・3丁目、三囲神社への入口)の上から四ツ木橋方向を撮影しました。電線が地中化され電柱が無くなりました。高層階のビル建設は現在も旺盛に進展し、水戸街道の風景はすっかり変貌を遂げています。

現在の水戸街道を撮影した写真''
50年前まで、道路中央に都電が走行していた。令和元(2019)年10月撮影

続く