35押上界隈の歴史あれこれ
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35.回向院 †
前号で紹介しましたが、江戸時代は「火事と喧嘩は江戸の華」といわれていたほど江戸市中には火事が多発していました。特に、約360年前の明暦3年(1657)1月に発生した大火は江戸時代で最も大きな被害を出しました。俗に「明暦振袖火事」といわれています。江戸市中の3分の2を焼き尽くし、死者は10万人を超えたと言われています。
両国 回向院
江戸幕府四代将軍徳川家綱は、「本所の開拓」に先立って、隅田川東岸の牛島に「万人塚(無縁塚)」を設け、火災による多くの身元不明の焼死者を埋葬し弔いました。これが回向院建立の起源です。回向院は、宗旨の分らない遺体を埋葬していることから、一宗一派にとらわれない寺院ということで、正式名称は「諸宗山無縁寺回向院」と命名されました。

回向院は、その後も大火・大震災・水害など天災・人災の無縁の亡骸(なきがら)を弔いました。近年では関東大震災や東京大空襲などによる犠牲者も埋葬されています。
回向院は昭和20年(1945)3月の東京大空襲で焼失しました。
当初の回向院は西向き(隅田川の方向)に建立されていました。回向院と同時期に設けられた両国橋(当時の橋は現在より約100m下流の位置)を江戸城側から渡ると橋の正面突き当りが回向院の正門(山門)でした。江戸時代の画家・斎藤月岑(げっきん)の版画「江戸名所図会 回向院」には、正門をくぐりぬけると、本堂も正面の西向きに描かれています。戦後の再建時には、正門(写真1)の位置は京葉道路に面して境内の北側に設けられました。

回向院境内には様々な石碑・お墓があります。現存する主な碑は、「安政の大地震供養塔(1)」「浅間山大噴火供養塔(2)」「奥羽飢饉供養塔」「関東大震災横死者之墓(写真2)」「鳥居清長墓(3)」「山東京伝(4)・京山墓」「二代目中村勘三郎墓」「鼠小僧次郎吉墓(5)」「力塚」等です。
回向院と大相撲
明和五年(1768)、勧進相撲が回向院境内で初めて行われました。勧進相撲とは社会事業の資金集めのための相撲興行です。興行は随時行われていましたが、天保4年(1833)の秋から年に2回の定期興行が、回向院境内で行われる様になりました。更に明治42年(1909)には境内に常設の旧々国技館が建設されました。戦災での焼失が免れた国技館は一時、米軍に接収され、蔵前に移りました。昭和60年(1985)国技館は再び現在の地、両国に戻ってきました。国技である相撲と両国の地との深い縁は、こうして今日まで続いています。
南千住 回向院
荒川区南千住にも回向院があります。
この地は昔、小塚原(こづかっぱら)といい、江戸時代には品川の鈴ヶ森と共に2大刑場がありました。ここでの牢死者や刑死者の菩提を弔うために、両国回向院の別院として、寛文七年(1667)に創建されました。幕末の安政の大獄により処刑させられた吉田松陰をはじめ多く人たちが埋葬されています。
また、江戸時代中期の医師 前野良沢(7)・杉田玄白(8)・中川淳庵(9)は、明和8年(1771)にここでの腑分け(解剖)に立ち合い、オランダの解剖図の正確さに驚き、翌日からその翻訳に取り掛かりました。そして3年後に有名な「解体新書」を完成させたと言われています。
<注釈>
・1 安政の大地震 安政2年(1855)江戸を中心に発生、マグニチュード推定6.9、死者1万人に及んだと言われている。
・2 浅間山大噴火 天明三年(1783)の大噴火で、千人以上の死者を出した。
・3 鳥居清長 (1752〜1815)江戸時代中期の役者絵・美人画の浮世絵師。
・4 山東京伝 (1761〜1816)江戸時代中期の戯作者・浮世絵師。山東京山は弟。
・5 鼠小僧次郎吉 (1795〜1832)江戸後期の怪盗。鼠の様に身軽で大名屋敷・武家屋敷を専門に夜盗を働いた。約10年間に100回以上、凡そ1万2000両を盗み、捕えられ市中引回し後、処刑された。~
・6 前野良沢 (1723〜1803)江戸時代中期の蘭学者・医学者。幼くして両親に死別、叔父に育てられた。蘭学の始祖青木昆陽から蘭学を学んだ。
・7 杉田玄白 (1733〜1817)江戸時代中期の蘭方医・蘭学者。若狭小浜藩医の子として生まれる。解体新書の刊行を中心に蘭学導入の回想録を記した「蘭学事始(らんがくことはじめ)」も著した。
・8 中川順庵 (1739〜86)江戸時代中期の蘭医・若狭小浜藩医・幕府医官。本草学・蘭学を学んだ。