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28、田中稔さんの「昔のお話」


過日、私は田中稔さんから、この界隈の昔のお話しを伺いました。田中さんは昭和6年(1931)生れで、昭和8年(1933)現在地(押上2丁目)に転居、今日に至っています。押上2丁目町会の町会長もつとめた方です。田中さんから伺ったお話から、当時の押上界隈の様子を紹介します。
 田中さんのお父さんは明治32年(1899)に、現在の北十間川に架かる京成橋の上に当たる場所で生まれそうです。「えっ、本当⁉」と驚く人もいると思います。
 図1は、その10年後の明治42年(1909)、日本帝国測量部発行の地図です。北十間川は、確かに京成橋あたりから東武橋先の横川までの間が埋め立てられており、そこは街並みを形成しています。
調べてみると、北十間川は江戸時代末期(1856年)の隅田川向島絵図でも、既にこのあたりが埋め立てられていました。

明治42年(1909)、日本帝国測量部発行の地図です。''

   図中に東武鉄道が記されています。明治35年(1902)に開通しましたが、当初の本線は、亀戸線の方でした。レールは東京スカイツリー駅の位置まで敷設されましたが、図に駅名は無く、「貨物積載所」と記されています。ここは貨物専用路線でした。
 図2は、関東大震災前の大正6年(1917)に日本帝国測量部発行の地図です。北十間川は再び開削され源森川と繋がっています。明治42年以後に開削工事が行われ、押上橋も架けられたようです。開削工事に合せて、田中さんの家は、押上橋際に移転したそうです。

関東大震災前の大正6年(1917)に日本帝国測量部発行の地図です。''

「貨物積載所」と記されていた場所は「浅草駅」(後に業平橋駅)になり、京成押上線が大正元年(1912)に開通しました。
 浅草駅構内は貨物引込み線が増え、線に沿って北十間川から「貨物船引込み用の堀」が設けられています。現在の東京スカイツリー及びソラマチの位置にあたります。
 押上界隈は、このわずか10数年の間に急速な都市化が進んでいました。

 田中さんは戦前の昭和18年(1943)に牛島小学校(現在の本所高校の位置)を卒業しました。クラス担任は白石豊先生で、先生のお住まいは近くの「同潤会中之郷アパート(*1)」でした。偶然にも白石先生は、私が昭和23年(1948)4月、言問小学校に入学した時の隣のクラス担任でした。牛島小学校は戦後廃校になりました。先生はその時に言問小学校へ転任されたようです。因みに、明治44年生れの私の父も牛島小学校の卒業生でした。牛島小学校廃校後の昭和21年(1946)5月に都立本所高等女学校が移転してきました。同校は昭和25年(1950)に都立本所高等学校と改称され、現在に至っています。

 〈注釈〉
 *1 同潤会中之郷アパートは、関東大震災後に建てられた日本初の鉄筋コンクリート造りの近代的なアパート。老朽化により、1989年に女性センターが入所している「セトル中之郷」に建替えられた。

 昭和20年(1945)3月の東京大空襲の時、中学2年生だった田中さんは、飛木稲荷神社の燃えたご神木を目撃していました。その時の様子は、以前「押仲66号」で紹介した小学生道徳副読本「ふるさとを守った大いちょう」の記述と違っていました。以下田中さんのお話を紹介します。
 『飛木稲荷神社前の道と旧古川を埋め立てた細い道(ホンダの脇の道、旧本所区と向島区の境)の間一帯は、建物疎開(*2)により広い空き地になっていました。深夜の東京大空襲の時、田中さんは町会の人たちと共に、ここに避難しました。神社の社殿や神楽殿が焼失し、ご神木のイチョウは炎に包まれましたが延焼をくい止めました。鎮火後、今度は折からの強い北風により、火の手が隅田川の方から燃え広がり、空き地の南西側の本所一帯を焼け尽しました。しかし、空き地に避難した町会の人たちは、ほぼ全員が助かりました。イチョウは黒焦げになったけれど、根は生きていたのでしょう。後に再び芽を吹き、甦ったのです。』
 このことは、昨年のNHK特集「東京大空襲七五年」の中で、田中さんが取材を受け、令和2年(2020)3月11日に放映されました。その後、「焼けたイチョウのご神木」について、日本経済新聞の取材も受け、同年7月12日発行の日本経済新聞に紹介されました。写真はその時に掲載されたご神木のイチョウと田中さんです。

日本経済新聞より''

東京大空襲時、飛木稲荷神社のイチョウが燃えるのを目撃した田中さん「今はほとんどの人が戦争を知らないでしょう。このイチョウを見て、戦争の悲惨さを体験してほしい」  日本経済新聞より

 〈注釈〉
 *2 建物疎開とは、空襲で火災になった時の延焼を防ぐために、建物を強制的に解体して空き地を作った。

 田中さんは、関東大震災後の復興期及び東京大空襲に見舞われて以後の復興期を過ごした郷土史の生き証人のお一人です。貴重なお話を聞かせて頂きました。

続く