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29、渡辺志津子さんの『昔のお話』


 町内在住の渡辺志津子さんから、この界隈の昔のお話を伺いました。渡辺さんは昭和5年(1930)生まれ、現在地(旧住所は向島請地町)で育ちました。九一歳とご高齢ですが大変お元気で、私の知らない時代のいろいろなお話を伺うことが出来ました。今回は、その中から、東京大空襲があった終戦前後のお話しをご紹介します。
『  』内は渡辺さんのお話です。
 渡辺さんの旧姓は桐生さんです。押仲89号でご紹介した田中稔さん(押上2丁目在住)と牛島小学校の同学年生で、同校を昭和18年に卒業しました。
 『小学校6年生の時(昭和17年)、修学旅行で伊勢神宮に行きました。その時は、京成橋を渡り、押上の停留所から市電に乗って東京駅まで行きましたよ。でも、戦時中であったためか、前の年と、次ぎの年の修学旅行は実施されなくて、私たちの年だけが行けたのです。そんな時代でした。』
 都電は大正時代に敷設されました。当時は東京市であったので、市電です。柳島〜月島間が、その後、柳島〜須田町間が開通しました。昭和18(1943)年、東京市が東京都に改められ、都電になりました。渡辺さんのお話は、丁度その頃のことです。
 都電は、戦後も、都民の足として活躍しましたが、経済成長と共にモータリゼーション(車社会化)が進み、幹線道路は自動車の渋滞が始まりました。道路の中央を走る都電は順次廃止、最後に「柳島〜月島間」が昭和47(1972)年に廃止されました。
 昭和17年、牛島小学校に隣接して都立本所高等実践女学校の新校舎が完成し、移転してきました。渡辺さんは、牛島小学校卒業後、隣の同女学校に入学しました。
 近くにあった請地駅について伺いました。
 『請地駅は小さい駅でしたよ。女学校時代、戦時中の勤労動員でかり出されて、請地駅から東武電車に乗って玉ノ井駅(現在の東向島駅)迄行きました。空襲があった時は、電車の運行が止まります。そんな時、帰りは玉ノ井駅から押上まで歩いて帰ってきました。こんな酷い目にも遭いました。
 また、浅草へ行く時も請地駅から東武伊勢崎線に乗りました。駅が近く便利に使っていましたよ。』
 請地駅は東武が昭和六年に、京成は翌年に乗換駅として開設されました。請地駅の場所は、「新あずま通り」が東武・京成の線路に突き当たった位置と2号踏切の間にそれぞれありました。東京大空襲でいずれの請地駅も焼失しました。京成は昭和22年に、東武は昭和24年に、いずれの駅も再開されることなく廃止されました。
 図1は昭和16年発行の「戦前東京散歩」(人文社)掲載の地図を抜粋しました。

昭和16年発行の「戦前東京散歩」(人文社)掲載の地図を抜粋''


 『牛島小学校時代・女学生時代の通学には、曳舟川に架かっていた曳舟橋を通って登校していました。女学校二年生の時のこと、登校時はいつもの様に、曳舟橋を渡って行きました。その日には授業中に空襲がありました。帰りには、曳舟橋が焼け落ちているのを目にしました。回り道をして帰って来たことがありました。』
 曳舟橋は、関東大震災後の区画整理で、桜橋通りが出来た時に、架けられました。焼失した橋は、終戦後に再度架け替えられましたが、昭和30年に曳舟川が埋めてられた時に無くなりました。
 『女学生時代の昭和19年、群馬県の親戚の青年が特攻隊に出征するので、(普段は着ない)和服姿で見送るように言われて、上野駅まで行ったことがあります。出掛ける前に撮った写真があります。大変な時代でした。当時はカメラが普及していなかったので写真館で撮影しました。』
 お話を伺っていて、どれほど多くの青年たちの命が失われたことかと思うと、胸が痛みました。幸いなことに、その方は飛び立つことなく復員されたそうです。
 『昭和20年3月10日深夜の空襲時は、大火の中を逃げ回り、京成橋を渡って四つ目通りと浅草通りの交差点角の三菱銀行(現在の三菱UFJ銀行)脇に逃げて助かりました。三菱銀行は鉄筋コンクリート造りだったのですね。その頃、北十間川を利用した舟運が盛んで、川には貨物用の船がたくさん並んでいました。空襲の時、船に避難した人たちが沢山いました。しかし、船に乗った多くの人が亡くなりましたよ。』
 図2も昭和16年発行の「戦前東京散歩」(人文社)掲載の地図を抜粋しました。 (戦前の地図には三菱銀行の位置に第百銀行と記されています)

昭和16年発行の「戦前東京散歩」(人文社)掲載の地図を抜粋(戦前の地図には三菱銀行の位置に第百銀行と記されています)''


 東京大空襲の本所・向島の惨状は「押仲68号」の「東京大空襲の惨状」で紹介しましたが、押上界隈でも、この様な悲惨な状況があったのですね。あらためて心を痛めました。
 『当時は、映画館がたくさんありました。近くには請地館・柳島館・業平座等です。現在のどのあたりにあったのか? 様子がすっかり変わってしまい判りませんが・・・。』
 映画は戦後の娯楽の中心でした。お話を伺っていて、当時、夏休みの夜、学校の校庭に大きなスクリーンを張った映画鑑賞会が行われたことや、小・中学校時代に、年に一度の映画教室があり、浅草六区の映画館や、錦糸町の本所映画・江東劇場等へ、先生の先導で長い列になって徒歩で見に行ったことを思い出しました。昭和30年代前半までは映画全盛の時代でした。


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