31押上界隈の歴史あれこれ
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31.墨田ゆかりの著名人 †
近代文学の文豪 幸田露伴
墨田区ゆかりの文人、近代文学の礎を築いた文豪「幸田露伴」を紹介します。
幸田露伴(こうだろはん)(1867―1947)は、文化の向上発展に目覚ましい功績をあげた人に贈られる「文化勲章の第一回受賞者」です。昭和12年(1937)本多光太郎(物理学)・佐々木信綱(歌人)・横山大観(日本画)等と共に受章しました。
露伴は、明治文学の一時代を築き、尾崎紅葉・坪内逍遥・森鴎外等と共に近代文学を発展させ、「紅露逍鴎時代」と呼ばれ、墨田区に約30年間住み、数多くの多くの作品を発表し活躍しました。
露伴の本名は成行(しげゆき)です。幕臣幸田成延(しげのぶ)の四男として、台東区下谷に生まれました。
東京師範付属小学校(現筑波大付属小学校)卒業後、明治11年(1878)に、東京府立第一中学校(現日比谷高校)に入学しましたが、経済的な理由から中退しました。向学心に燃える露伴は、図書館に通い勉強を続けました。この間、文学にも関心をもちます。優れた成績であった露伴は、官費で逓信省の電信修技学校に入学することができました。卒業後は技師として電電公社(現NTT)に入社、しかし文学を諦められず、明治20年(1887)退職し、この道に入りました。
露伴が住んでいた住居跡(現在の東向島119)は「露伴児童遊園」(写真1)になっています。園内には碑があり、この地に居を構えた経緯が、次の様に記されています。

『幸田露伴は、明治・大正・昭和の3代にわたって、小説をはじめ評論や随筆、詩歌、考証研究などに、大きな足跡を残した文学者です。若き日の明治20年代から「風流仏(ふうりゅうぶつ)」や「五重塔」などの名作を次々に発表し、尾崎紅葉と共に「紅露時代」と並び称されました。向島にはじめて住んだのは明治26年(1893)のことで、現在の白鬚橋近くにいた父母や兄が隅田川対岸の橋場へと転居したのにともない、そのあとに入ったのです。岐雲園と称されるこの家は、もと幕末の外国奉行だった岩鹵蘓(ただなり)が建てたもので、汐入りの池や梨畑のある広い庭を持っていました。露伴が岐雲園に住んだのはわずか一年ほどでしたが、明治30年(1897)にはふたたび向島へと戻り、当地よりほど近い、雨宮酒店の隠居所を借りて居を定めました。現在、博物館明治村に移築(写真2)されているこの家では、のちに作家になる娘の幸田文(あや)が生まれています。

「蝸牛庵(かぎゅうあん)」とは露伴の家のことで、若いころから転居続きだった自分を、殻を背負って歩くかたつむり(蝸牛)に喩えたのが由来です。生涯にわたって用いられた庵号(あんごう)で、特定の建物を指すわけではありませんので、区別のためにしばしば地名を冠して呼ばれます。
明治41年(1908)、露伴はみずからの設計で家を新築し、当地に移り住みました。短期間の居住におわった岐雲園をのぞけば、ここが第2の向島蝸牛庵にあたります。隣には割烹料亭「雲水」の庭が広がるすぐれた環境で、中国明代の「靖難の変」を題材にした歴史小説「運命」をはじめ、「幽情記(ゆうじょうき)」や「望樹記(ぼうじゅき)」といった代表作をいくつも執筆されました。この家で少女時代をすごした幸田文(注)は、当時の様子を「みそっかす」や「糞土(ふんど)の墻(かき)」に美しく描いています。しかし、関東大震災によって井戸水が濁ってしまったことなどから、大正13年(1924)、一家は16年あまりをすごしたこの地を離れ、小石川に移転していったのです。』
露伴と言えば、私の母校都立墨田川高校の卒業生は直ぐに校歌が思い浮かびます。
母校の大先輩、ジャーナリストで特に昭和史に詳しかった作家の半藤一利さんは著書『隅田川の向う側』の中で次の様に記しています。
『幸田露伴と言えば、誰しもが『五重塔』を想起するだろうが、私には在学した府立七中(現 墨田川高校)の校歌がいちばんだ。甲子園に出る機会がこの高校には万に一つにもないらしいのが心残り。いちど満天下に聞かしてやりたい。~』
校歌は4番までありますが、冒頭の一番の歌詞のみ紹介させて頂きます。
注〉幸田文は露伴の二女。随筆家・小説家で、娘(露伴の曾孫)の青木玉も随筆家、孫(露伴の曾孫)の青木奈緒はエッセイスト・作家。幸田家は四代続く文学者一族です。